東大の先生に君には東大以外の選択肢はないと言われた話

 おはようございます。斉藤亮太です。今回は昔話を。

 

 高校一年の夏、名古屋で行われた何らかの大学説明会で東京大学の先生と話したことを唐突に思い出したので、書きます。

 

 当時の私は歴史学が大好きで、朝から晩まで、授業中であろうとなかろうと歴史に関する書籍を読んでおり、日本史と世界史の先生以外からよく怒られた記憶がある。しかし、当時の私は、「歴史も知らずして何が勉強か」と思っていたのではないか、と思い起こせるくらい歴史に取り憑かれていた。このことは、幼少期わたくしは育ててくれた祖父が歴史の研究者だったことに起因しているが、彼は書いた歴史記述を結局出版しようともせず、書き溜めていたものをここ数年のうちに管理できず散逸させてしまったことは大変申し訳なく思っている。

 

 そんな歴史狂であった私が説明会で東京大学教養学部の先生と一人だけ1、2時間も話し込んでしまい、大学職員から「他の子とも話してください」とたしなめられるまで続いたのは、その時我々が学問の将来について話し合ったからだろうと思う。

 

 彼は、理学部出身にも関わらず、文系の研究に従事していた。それは領域横断的な今日の学問傾向のためだが、本人はとても愉しんでいた。本来の実験中心の研究ではなく、文系学者と理系学者が共に研究の道を歩むことに、大いなる希望で胸躍らせていたのである。私は、当時歴史と心理学が好きだった。そのため、いずれは歴史心理学といった学問をつくりあるいはあるかもしれないが、偉人を歴史学的文献渉猟と心理学的精神分析によって研究していきたいと思っていた。

 

 例えば、信長が短気だったのは彼の暮らしていた地域は、八丁味噌の流通量が多く、また信長がそれを好み、味噌汁をつくる際に、大きなおたまにすりきり数杯入れさせていたからということに当時、興味をかき立てられていたーならばなぜ秀吉・家康はそこまで短気でなかったのかと考えもしなかったーのだが、「果たして、味噌による塩分の過剰摂取がだけが原因なのか?」と、こういう種の研究をしていきたい、と浅学きわまりない中で言ったのだ。そして、彼の研究分野の話をし、互いにこれはどう思う、あれはどうだ、と議論に大輪の花が咲いた。

 

 職員が間にはいると、先生は私にこういった。「東京大学は君のためにあるような大学だ。ここ以外に君がやりたいことをできるところはないよ。東大に来なさい。入学式で待ってる。」と。私はこの言葉に大きな影響を受けた。しかし、今は東大にはいない。それは高校の勉強ではないところに頭を向けてしまったからに他ならないだろうけれども。それはそれでありだと今は感じる。

 

 そして、そのセクションでの話を終えると、その先生は「ちょっと休憩」と言って、ブースを離れたのだが、その会場の外で、先生と私が話し続けたのはいまとなっても、例の大学職員には秘密にしなければ、と日々確認している。

 

 

発達障害者を笑っていたこと

 こんにちは。斉藤です。今日はいままでの自分を振り返ってみます。

 

 街中でいきなり大きな声で騒ぎ出す人。自分に不都合なことがあると声を荒げ、相手を罵る人。感情の発露を厭わず、周りに押し付けるひと。

 

 私は、いままでこういう人をただただ一笑に付していた。しかし、いま思えば間違っていたのかもしれない。

 

 以前。私は、そういった非理性的ケダモノには人権など付与されていないと考えていた。というのも、外形的なヒトのあり方は、人間そのものの本性に関わる限りにおいては、重要でなく、人として生きる、人であるということは、理性その力を持ち、かつ発揮できるもしくは発揮している人に限られていると考えていたからに他ならない。

 

 つまり、理性の力なくして、人たりえず、理性を働かせていないヒトは無用のケダモノと理解していたのである。むしろ駆逐せしめることさえ必要だと考えていた。この点は、断種法という手段を以って、発生を予防するという近現代の人類史におけるものよりも過激な思想に属するものである。

 

 しかし、最近、ことにつけそういうヒトを見、そして自分自身がそうではないと言いきれる合理的で説得的な証拠もない上に、むしろ発達障害に見られる症状や傾向というものがほとんど全てのヒトに見られるのではないかと、感じるにいたり、自らの考えを改めた。というより、徐々に変わってきた。

 

 

 恥ずかしい過去を公開することは、自分の弱みを見せることであり、ダンブルドアさえ避けていたことだ。しかし、私はその自分を隠すことよりも自ら露見させることを選んだ。それは、ヒトはみな不完全であり、一寸の誤りもないヒトや概念、理想など信用するに値しないと自らに刻み込むためである。

 

 

 

 

私はなぜ書くか

「私は執筆する」

 

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 このポスターはクルシェネクが1922年に公開した『ジョニーは演奏する』のものです。これを意識して「私は執筆する」なんて書いてみたわけです。この作品は「退廃芸術」の印をナチスに刻み込まれる。そしてそのために作者クルシェネクは1938年にドイツから亡命することになる。

 

 私は常々感じている。「芸術」「宗教」「学問」が織りなす文化というものは、人々の深層に存在する極めて本質的な部分に大きな働きかけをする作用があると。文化は極めて精神的な活動領域であるが、その先にあるのは社会であると確信している。文化とは、人々の生活に根ざした、高度に精神的な活動分野だ。つまり、人々の根幹部分を形作っている慣習や態度だ。

 

 その文化をバックとして、社会が構成され政治が行われ経済活動が行われるが、精神的すなわち私的な価値基準によって人々は考え、語る。したがって、精神的で私的ゆえに公的な社会が構成されていく。その中で必要なことは、人々が考え、語ることである。『ジョニーは演奏する』は「退廃」のラベルで上演禁止になり、表舞台から消えることになるー「退廃」のつるしあげには使われる。そしてナチス・ドイツは「芸術に関する批評活動」を禁止していった。映画の批評、絵画の批評、音楽の批評、オペラの批評、文学の批評。なぜか。すでに明白なことだが、精神活動の「考える」「語る」の「語る」を禁止すれば人々は、「語る」ための思考を失うし、「語」りつつ「考える」ことをできなくなっていく。そのために、人々の思考判断能力は萎えていき、その先に支配者の専制や権力の伸長があるのだ。

 

 

 私はなぜ書くのか。それは、「わかもの×対話×」での活動を通して、人々の社会と結びつけた先に、公的な言論空間がもしなかったら、結局人々は精神的ゆえに公的な思考の展覧場を持たないことになり、殻に閉じこもり社会から離れてしまうからだ。これではまたふりだしに戻る。

 

 しかし、ジレンマがある。書けば書くほど「中立ではありえなくなる」ことだ。中立ではなくなり、活動の性質上の信頼がなくなる。しかし、ことは簡単だ。私がなんらかの思想に則り、「あいつに則ると」というのをカッコでくくって持っているのだ。こうすることで、「あいつの意見に沿うとね」と記述内容を自分から話して考えることができ便利で、個人の思想の表出を抑えることになる。私のいままでの記述に政治思想的な観点からこれは何主義かと、よほどの変わり者でなければやらないであろうが、峻別の操作を加えてくださる方がいたら、やってみていただきたい。本当に私は短期間で保守革新、リベラル、リバタリアニズムネオリベと大きく振れていると分かるだろう。それは、物事にたいする視座として、定規としてそれらの思想に基づくのが楽しくて仕方ないからだ。

 

 ここに来て、結論が出た。

Q.なぜ書くか。

A.楽しいから。

 

 

塾講にふりかかる生徒の「忘れた」の脅威

 俺は、別に「怒る」ことが苦手ではない。しかし、「怒る」ことが馬鹿らしい場面もあるために、怒らないことが多々あった。例えば、塾講時代の生徒の宿題忘れ、持ち物忘れだ。怒っても意味がない。

 

 これは何も、「生徒が困るのであって俺は困らないから」というわけではない。忘れてしまったモノは忘れてしまったモノであって、怒ったところで解決することは本当に少ない。それに、生徒の到達度の確認は宿題を見られないとしづらいので、実は講師も困るのだ。生徒の勉強をサポートするには常に生徒の学力状況ー言い換えれば、暗記状況ーを確認する必要があるからだ。

 

 宿題or持ち物を忘れた生徒には必ず「忘れた理由」を聞く。宿題なら「やったけど忘れた」とか、「時間がなかった」がテンプレートで、持ち物忘れは「机の上においてきてしまった」とか、「なくした」が定型だ。うん。別にどんな理由でも構わないよ。俺が理由を聞くのは、コミュニケーションのためにであって、怒るとか、追及するためじゃないから。テンプレ聞くと、「うそだ」とか思いがちですが、そんな不確定要素満載の判断俺は下さないからね。

 

 俺たち、講師の問題はそこから。「宿題の量多かった?」とか、「もしテキスト忘れやすいならおいていっていいよ。」とか何らかの解決策を練り、提案していく必要がある。それこそ講師に求められていることだと思うからです。というのも、人は気をぬくと勉強なんてしたくないとなる。その気持ちを抑え、勉強するサポート役として存在するのが塾講だからです。^^

 

 こういう風に怒りたくないのは、宿題なんてやらなかったし、持ち物を持っていないことが日常茶飯だった過去の自分を否定しないためなのかなぁ。なんて。

北朝鮮のミサイル発射について

 

www.asahi.com

 北朝鮮がミサイル発射しましたね。予告していたので焦ることはなかったですし、私は寝てましたので。それに起きていて、焦ったところで俺らにできることないべ。

 

 そして、産経新聞のこちら。

www.sankei.com

 うむうむ。確かに、北朝鮮は「ミサイル」じゃなくて、「人工衛星」と言っているので、このように表現するのは、外交上、失点がないですよね。

 

 冷戦当時、アメリカとソ連が互いの「人工衛星」発射を批判していなかったのだろうか。まぁ、それは知らないけど。いずれにせよ、騒ぐことじゃないと思います。

 

 

 そういえば、面白いのは「中国・朝鮮脅威論」を唱える人からしたら、「ほらみたことか。やっぱり危ないぞ!」であって、それに異を唱える人は、「必要ないのに集団安全保障関連法を立法したことで、北朝鮮を刺激したんだ!」って言うわけですね。

 

 物事は、すべて捉え方に依存します。この「ロケット発射」「ミサイル発射」に関する冷静な対応は「はい。そうですか。わかりました。」だろう。

 

 日本の立法行為で刺激したとか、あいつらは危険なんだ、とかアホすぎて噴飯モノなのでどちらにも組したくありません。以上。

 

 

  そういえば、今日の昼にこのラーメン食べました。

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  静岡の「寿や」ってラーメン屋です。初めて行きました。塩バターラーメン800円。おいしき。写真のは、ランチタイムサービスで大盛り。また行こ〜 

 

 

教会大分裂から、大結合へ!?

今日は、手抜き…なわけではなく、NewsPicksでpickしたやつがブログに載せても、いいくらいの分量だったので。東西キリスト教会の最高者が会談すると…。あごがとれそうです。

 

あ、ちなみに、題名にある「大結合」はありえません! (断言

 

www.chunichi.co.jp

 
 

な、なんじゃこりゃあ!!!!

ここ数年で最大の衝撃!!
 
まず正教会ってなんじゃいな、ってことなんですけど、原始キリスト教においてローマ帝国第三の都市とまで言われるアンティオキアがキリスト教の異邦人宣教の光源なのですが、東西南北に広がっていくにつれ、キリスト教の五本山と呼ばれるものが形成されていきます。
 
これは初期キリスト教世界において、アンティオキア、アレクサンドリアイェルサレムイスタンブール(後のコンスタンティノポリスコンスタンティノープル)、そしてローマの5つ。この中から、ローマ帝国の首都で、キリスト教が迫害された後に、公認さらに国教化される中で、ローマ教会が力を持ち始めます。そして、世俗的権力をもローマ教会が握ると、西方教会ーWestern Churchーが構成されていきます。
 
すると、キリスト教の光源がアンティオキアつまり現在のシリアで、ギリシア文化圏だったわけですが、そちらの五本山のうちのローマ教会以外の四教会が東方教会ーEaster Churchーとして確立されていくわけです。その流れの中で、世俗的権力を掌握し、西方教会はいわば調子に乗っていくわけですが、東方教会は正統な教義を守り続ける、と。東西分裂を経て、ギリシャ側の教会は、ギリシャ正教となり、<Orthodox Church>(正統な教会)となる。
 
一方、西方教会は対抗してか、Catholic(普遍的な、一般的な)となっていく。
 
 
カソリックは西欧に広がり、その教義の世俗化や教会の腐敗によって、宗教改革が起こされプロテスタントと分裂するわけです。
 
 
オーソドックスは、ギリシャ圏から北上政策(!? 南下政策の逆だと今気づいた)をして、その版図を拡げ、現在のロシアにまでいたり、そして東方にも拡大し日本正教会も構成される。さらに、現在のロシア正教会正教会の中で最大とも言われることになる。とはいえ、宗教における「最大」が何を意味するのか私は分かりません。
 
 
「正統教義のオーソドックス・チャーチvs普遍教義のカトリック・チャーチ」だったということです。ところがこの対立が氷解すると…え!? 分からない!! 何が起きるの! 教えて!!
 
ひょっとしたら私の人生で最大の歴史的出来事のきっかけになるかもしれない会談。注目。刮目せよ! って感じです。

あれ? いまから「可能性」って言葉使おうとしてる? ちょっと待って

 どもー、わんばんこ。今日2月5日は気を抜いたら記事書けない可能性があるので、いまのうちに書いちゃいます。

 

 

 ん〜〜〜〜??? 「記事書けない可能性」!?!?!?!?

 

 はい。変ですね。「可能性」という単語は、ポジティブな意味ですので、もし「書けない」ことを残念なことと考えているならば、「書けない可能性がある」とは言わないわけです。例えば、シリアで行方不明になった安田純平氏に関して、ニューズや記事で

tocana.jp

 こんな風に「可能性も?」とか書いちゃうと、なんかおかしいですよね。ジャーナリストにとっては亡くなっている方がネタとしておいしくて嬉しいのかもしれませんけど、それは考え難いですし、恐らく用法の間違いですね。

 

「可能性」という言葉は"possibility"の訳語なので、一応英英辞典を参照すると

1. possibility a future prospect or potential "this room has great possibilities.

 2. possibility, possibleness capability of existing or happening or being true

-MobiSystems『Advanced English Dictionary and Thesaurus』

 あれ? でもなんかそうでもなさそうだな。マイナス表現でも使えそう笑

 

 

 うーん、じゃあこれは俺の言語感覚の問題なのかもしれないけど、プラスのことをさす蓋然性は「可能性」を使いたいなぁ。マイナスのことをさす蓋然性は「恐れ」だよね。

 

 どう思いますか? Twitterでもコメントでもいいので、お声をお聞かせくだされ!