私はなぜ書くか

「私は執筆する」

 

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 このポスターはクルシェネクが1922年に公開した『ジョニーは演奏する』のものです。これを意識して「私は執筆する」なんて書いてみたわけです。この作品は「退廃芸術」の印をナチスに刻み込まれる。そしてそのために作者クルシェネクは1938年にドイツから亡命することになる。

 

 私は常々感じている。「芸術」「宗教」「学問」が織りなす文化というものは、人々の深層に存在する極めて本質的な部分に大きな働きかけをする作用があると。文化は極めて精神的な活動領域であるが、その先にあるのは社会であると確信している。文化とは、人々の生活に根ざした、高度に精神的な活動分野だ。つまり、人々の根幹部分を形作っている慣習や態度だ。

 

 その文化をバックとして、社会が構成され政治が行われ経済活動が行われるが、精神的すなわち私的な価値基準によって人々は考え、語る。したがって、精神的で私的ゆえに公的な社会が構成されていく。その中で必要なことは、人々が考え、語ることである。『ジョニーは演奏する』は「退廃」のラベルで上演禁止になり、表舞台から消えることになるー「退廃」のつるしあげには使われる。そしてナチス・ドイツは「芸術に関する批評活動」を禁止していった。映画の批評、絵画の批評、音楽の批評、オペラの批評、文学の批評。なぜか。すでに明白なことだが、精神活動の「考える」「語る」の「語る」を禁止すれば人々は、「語る」ための思考を失うし、「語」りつつ「考える」ことをできなくなっていく。そのために、人々の思考判断能力は萎えていき、その先に支配者の専制や権力の伸長があるのだ。

 

 

 私はなぜ書くのか。それは、「わかもの×対話×」での活動を通して、人々の社会と結びつけた先に、公的な言論空間がもしなかったら、結局人々は精神的ゆえに公的な思考の展覧場を持たないことになり、殻に閉じこもり社会から離れてしまうからだ。これではまたふりだしに戻る。

 

 しかし、ジレンマがある。書けば書くほど「中立ではありえなくなる」ことだ。中立ではなくなり、活動の性質上の信頼がなくなる。しかし、ことは簡単だ。私がなんらかの思想に則り、「あいつに則ると」というのをカッコでくくって持っているのだ。こうすることで、「あいつの意見に沿うとね」と記述内容を自分から話して考えることができ便利で、個人の思想の表出を抑えることになる。私のいままでの記述に政治思想的な観点からこれは何主義かと、よほどの変わり者でなければやらないであろうが、峻別の操作を加えてくださる方がいたら、やってみていただきたい。本当に私は短期間で保守革新、リベラル、リバタリアニズムネオリベと大きく振れていると分かるだろう。それは、物事にたいする視座として、定規としてそれらの思想に基づくのが楽しくて仕方ないからだ。

 

 ここに来て、結論が出た。

Q.なぜ書くか。

A.楽しいから。