発達障害者を笑っていたこと

 こんにちは。斉藤です。今日はいままでの自分を振り返ってみます。

 

 街中でいきなり大きな声で騒ぎ出す人。自分に不都合なことがあると声を荒げ、相手を罵る人。感情の発露を厭わず、周りに押し付けるひと。

 

 私は、いままでこういう人をただただ一笑に付していた。しかし、いま思えば間違っていたのかもしれない。

 

 以前。私は、そういった非理性的ケダモノには人権など付与されていないと考えていた。というのも、外形的なヒトのあり方は、人間そのものの本性に関わる限りにおいては、重要でなく、人として生きる、人であるということは、理性その力を持ち、かつ発揮できるもしくは発揮している人に限られていると考えていたからに他ならない。

 

 つまり、理性の力なくして、人たりえず、理性を働かせていないヒトは無用のケダモノと理解していたのである。むしろ駆逐せしめることさえ必要だと考えていた。この点は、断種法という手段を以って、発生を予防するという近現代の人類史におけるものよりも過激な思想に属するものである。

 

 しかし、最近、ことにつけそういうヒトを見、そして自分自身がそうではないと言いきれる合理的で説得的な証拠もない上に、むしろ発達障害に見られる症状や傾向というものがほとんど全てのヒトに見られるのではないかと、感じるにいたり、自らの考えを改めた。というより、徐々に変わってきた。

 

 

 恥ずかしい過去を公開することは、自分の弱みを見せることであり、ダンブルドアさえ避けていたことだ。しかし、私はその自分を隠すことよりも自ら露見させることを選んだ。それは、ヒトはみな不完全であり、一寸の誤りもないヒトや概念、理想など信用するに値しないと自らに刻み込むためである。