マイノリティーって?

 2/12に友人の誕生日パーティーに行ってきました。彼は本当にステキな人で、つつまず言えば大好きですね。

 そのパーティーの途中に、ふと感じたことがあります。マイノリティと思われがちな人。例えば政治家。「わかもの×対話×政治」の中で、イベントの目標のひとつとして、「政治家である前にただの人ってことを一緒に感じる」を掲げているので「政治家もただの人」って言ってもらえるのは、ありがたいですが、考えてみれば、「ただの人」じゃないのってどんな人だろうか。もし、自分が「おまえはただの人じゃない」って言われたら、その通りだなぁ、と思うけど、なんかモヤモヤ。

 「普通の人」って考えるようになることは、その前提に「普通の人じゃない」「異常な人」といった壁や先入見があると考えられる。これは「自己を伝えることは人々を結びつけるが、それはまた対立を生み出すことでもある。」(亀喜信、2010)ってことですよね。「自己を伝えることが対立を生む」確かに、そういう空気はありますけれど、何か気持ち悪い。亀喜氏は先のに続き「個を尊重することは対立を受け入れることであり、いかなる対立もなくしてしまうことは個を否定することに他ならない。」と書いている。

 対立が「個の尊重」に先立ち、その対立を受容することが「コノソンチョウだ」と。対立を消し去ることは、対立を否定するあるいはないとみなすことでー、その先の「個の尊重」も同時に否定あるいはなくなってしまうのだから、結果として「個を否定すること」になる、ということか。うん。気持ち悪い。

 性的マイノリティであれ、人種マイノリティであれ、その他のいずれのマイノリティであれ、「マイノリティ」という現れを、この表現によって強調する理由はなんだろうか。もちろん、社会には少数者を虐げる風潮がある。それを是正するためだ、という考えがあるのかもしれないが、私はなぜ少数者を排除する傾向が存在するのかがまず分からない。「自分と違うから」という理由もあろうが、それが通るのならば「人は社会など構成しえるのか?」と。うーん。

 「違いがあって当たり前」なのが個的存在であって、その個的存在を「対立」をもって描出する試みは何となく気持ち悪い。ハンナ=アーレントの言う「公的領域」は「他の人とお互いに理解し合うために自己を伝える場」を指す。

 また個人は他者からの視点によって自らをより理解すると述べる。Joseph Luft(米、心理学者)を援用すると、「ジョハリの窓」の、1)開放の窓(みんなが知っている自分)、2)盲点の窓(自分は知らないけど他者は知っている自分)、3)秘密の窓(自分しか知らない自分)、4)未知の窓(誰も知らない自分)の内の、1と2と3を統合していく作業になるわけだから、当然、誰かと視点の受け取り合いがなければ成し得ない。それゆえに、この確からしさを認めると、公的領域は必要と言えるけれど、この公的領域が先の考えだと、「対立を認識する領域」であって、その対立を認識し受容することが「個の尊重」につながる? いやいや、つながらないでしょ。

 「対立」があるというのは認めるとして、しかしその先にはそれの「受容」と「敵対」と「無関心」が存在して(「無関心」はこの文章の射程ではないので考えない)、とすると、すべからく「対立ー敵対」構造が生まれて、公的領域内においてはマイノリティと言われる人は攻撃され続けてしまう恐れが生じる。これではうまくいかない。

 あくまで私は、性的少数者であれ(日本における)人種的マイノリティであれ、国籍的マイノリティであれ、出生地マイノリティであれ、「違う」ということを強く確認ーいや、意識することさえ必要がないと思っている。私は以前から金子みすゞ氏の「みんな違ってみんないい」という言葉が、もし「違うということを認識した上で、その差異は良いことなんだと思う」ってことを意味するならば、嫌いです。だって「違う」ということ自体は大切かもしれませんが、「違う」と強く認識するということは「対立」を意図せず孕むことになるんですから。

 これもあくまで個人的にですが、「違う」なんてことはどうでもよくて、「他の人とお互いに理解し合うために自己を伝える場」の「公的領域」において相手を理解する、知ろうとするという姿勢が重要で、それをすることで相手の性質や美徳を吸い込むことが求められているのだと思います。

 LGBTの友人のパーティーでしたが、私の中では彼がLGBTであるなんてことは、結構どうでもよくて、存在してくれていること、そして彼のことを知れることの方が大切なんです。その中でーこんなこと書くと差異を認識しようとしているわけで、嫌ですけどー彼がLGBTであるということを知り、その美徳を吸収していく方がよほど貴重だと。自分のことを公的領域で表現しよう、自己を伝えよう、自分の思いを実現するために動く。誰かを理解するために、知るために聴く。こういった行為で他の人たちと一緒に生きよう、って考えていきたいかな。
 
 途中からイマイチ何を言っているか分からないかもしれないけど、とりあえず菊本 寛 おめでとう笑。また会いましょうぞ。

Twitterアンケートを参考に執筆方針KETTEIしたぽよ

ども。斉藤です。こんなアンケート飛ばしてみました。

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なるほど。「思想・哲学・宗教」分野の需要が高いっぽいですね。

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 そしてその中だと「哲学」と「宗教」を書いて欲しいとのこと。「宗教」はむずかしいんですよね。めちゃくちゃ。本当にむずかしい。その文化的な流れを追うことくらいなら私でも可能ですが、その教義の厳密な解釈は恐ろしくむずかしいんです。おもしろいんですけどね。やるとした、神学的哲学になることはご了承ください。

 

 

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 どうやら「政治」分野は、「政策」に関する記事はいらないとのこと。そこが一番大切なのになぁ、なんて。まぁ、「現実の政治」を書いてくれてというのは概念としての政治をやっている私にとっては中々の隘路なわけですね笑

もちろん、書かせていただきます。がんばるのでドンドン突っ込んでいただければと! 学問的にというのは「政治学」を書いてくれ、みたいな気持ちでいたんですが、大学における政治学の授業で私は「政治学への適性なし」と言われた人間ですから、最多得票にならなくてよかったです。ホッ😌

 

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 そしてこれね。アメリカ大統領選についてということもあるかと思ってアンケート飛ばしてみたら、「違うわハゲ」の方がおおいので、これまで通り、カレッジーノかNewsPicksかTwitterで適当につぶやきますわ。はい。

 

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 んでもってこれ。アーレントの記事が悪くない感じに書けていたということで安心しましたが、「わかりやすい:わかりにくい=3:2」なので改善の余地ありですね。こうやって皆さんが答えてくれるおかげで、自らのライティング技術を客観的に見ることができそうです。これは、今に書きますがアーレントとしても大切なことなんですよね。

 

 本当にありがとうございます。わたくしの様な未熟な執筆者に大切な時間を費やし向き合ってくださる皆さまには感謝してもしきれません。本当にありがとうございます。

 

 上記の様な方針でしばらく書いていきますので、しばらくお付き合いいただけたら大変ありがたいです。よろしくお願いします。

 

 重ね重ね、感謝いたします。

アリストテレスの「正義」ー入門用の本から

 こんばんは。斉藤です。今日はアリストテレスの『二コマコス倫理学』の「配分的正義」を読んでみようと思います。『よくわかる法哲学・法思想』の中の記述を拠り所として。ちなみにこの「よくわかるシリーズ」は大変優秀なので、「ちょっと学んでみたいぞっ!」って人にはどの分野のものもオススメできます。

 

 この記事は、「哲学ってどんなんだ?」とか「思想ってどんなんだ?」、「文章ってどうやって読むんだ?」、「思考力ってどうやってつけるんだ?」っていうことを考える一助になればと思い書きます。

 

1.「正義」ってなんだ!?

 アリストテレスの時代の「正義」って「善く生きる」ことです。おっ、ハンナ=アーレントについてー大昔に読んだ『政治哲学5』を踏み台に - 未定でもう考えたことのある概念ですね。ところが、この「善く生きる」はアーレントの言うものとは違うわけです。アリストテレスの言うところの「善く生きる」とは、道徳と法律の秩序に従って生きること、です。律法遵守の姿勢が「善く生きる」なのです。ぜんぜんアーレントとは違いますね。そしてこれをアリストテレスは「一般的正義」と呼んでいます。アーレントの記事で用いたのは「一人ひとりの個人が他人の自由を侵さない限りにおいて、自分で自分のことを自由に決めて、自分の思いを達成させて生きることだ。」という「善く生きる」ことでしたね。

 

 そして一方、この「一般的正義」と一緒に「特殊的正義」というものが存在します。この「特殊的正義」を今日はメインで取り上げます。この「特殊的正義」は2つに分かれます。それが「矯正的正義」と「配分的正義」です。これらは、私人間における道徳のあり方を説いた「正義論」と言われています。前者は、契約とか損害賠償についての正義で現代社会では「裁判官の正義」な〜んて言われているものです。後者は、社会保障のあり方について論じたもので「立法者の正義」と呼ばれています。

 

 この「配分的正義」をサンデルがとりあげて、大変人気になったわけですが、今日はもうちょっと違った形で確認してみましょう。「もし当事者が均等なひとびとでないならば、彼らは均等なものを取得すべきではないのであって、ここからして、もし均等なひとびとが均等ならぬものを、ないし均等ならぬひとびとが均等なものを取得したり配分されたりすることがあれば、そこに闘争や悶着が生じるのである。」とアリストテレスは言います。

 

 さて。例の通り分解します。「1)もし当事者が均等なひとびとでないならば、2)彼らは均等なものを取得すべきではないのであって、ここからして、3)もし均等なひとびとが均等ならぬものを、4)ないし均等ならぬひとびとが均等なものを5)取得したり配分されたりすることがあれば、6)そこに闘争や悶着が生じるのである。」。このように6つに分けてみました。言っておきますが、こんな分け方はどうだっていいわけです。「この分け方じゃないとダメだ!」なんてそんなことはないです。

 

a.「1)もし当事者が均等なひとびとでないならば、2)彼らは均等なものを取得すべきではないのであって」!?

 想像してください。AさんとBさんがいます。Aさんの月収は20万円です。Bさんの月収は100万円です。政府が月に30万円ないと生活ない大不況に際して、国民全員に毎月5万円ずつ給付金を出すことを決定しました。さて、給付金をもらったとき、Aさんの月収は25万円です。Bさんは、105万円です。この時、アリストテレスはこれはおかしいというわけです。1)のとき、2)はしちゃいけないのです。つまり、AさんもBさんも5万円もらうなんてのはおかしいのです。

 

b.「3)もし均等なひとびとが均等ならぬものを、4)ないし均等ならぬひとびとが均等なものを」

 また想像してください。CさんとDさんがいます。二人とも月収は20万円です。30万円ないと生活できない不況です。そこで政府は、Cさんの方がカッコいいから、あるいはカワイイからという理由で10万円支給して、Dさんにはa.の通り5万円給付したとします。これだっておかしいわけです。4)に関してはa.の事例と同じです。

 

c.「5)取得したり配分されたりすることがあれば、6)そこに闘争や悶着が生じるのである。」

 a.とb.のように物が配分された時、ひとびとの間には不公平感が生まれるわけです。もしそんな不公平感がうまれるような物の配分をしてしまったら、当然、「それはおかしいぞ」という異議が上がってしまうわけです。生活できない人が出てきますから、デモや略奪が起きてしまうわけです。思い出してください。いま「配分の正義」ひいては「立法者の正義」について考えています。「立法者」つまり政治をやる人は、「a.b.c.で見てきたようなやり方をしてはダメだぞ」とアリストテレスが言っているわけです。その通りですよね。

 

2.Let's think on GENDAI !!

 では、現代を考えてみましょう。こういった思考法は、税金において使われているわけです。EさんとFさんがいます。Eさんは100万の収入のうち30万を税金でとられてしまいます。Fさんは、50万円の収入で、10万円とられてしまいます。すると、Eさんは収入が70万円に、Fさんは40万円になります。Eさんの-30万円を基準に考えると、Fさんは政府から20万円もらったと考えられるわけです。-10-(-30)=20。そうですね? これが所得に応じて税額を変更する「累進課税制度」なわけです。

 

 こういった考え方はちょっと特殊ですよね。これは国際政治でも使う考え方に近いのですが、X国とY国がいます。X国Y国ともに100の軍事力を持っています。X国がなんらかの方策でY国の軍事力を10だけ縮小・消耗させたとします。この時、X国は見方によっては、Y国の軍事力が90になりますから、軍拡したとも言えるわけです。

 

 他にも考えてみましょう。Aさんは20万円の収入でBさんは100万円の収入でした。でも、毎月30万円ないと生活できない社会状況です。そこで、国家はAさんの生存権を守るために10万円をどっかから持ってこなければならないわけです。それを国庫や地方行政の財源から「生活保護」という形で給付するわけですね。でも、Bさんは100万円の収入なので十分生活できるので「生活保護」なんていらないわけです。だから国家はAさんにだけ「生活保護」を与えます。

 

 このように、「累進課税制度」も「生活保護」もアリストテレスの「特殊的正義」の中の「配分的正義」にかなっているわけです。だから人々は「不公平だ!」なんて思うことはないはずなんですね。簡単ですね?

 

 ここで「軽減税率」を考えるとどうなるのでしょうか? 食品って誰もが買いますよね? その「食料品の税率は下げようぜ」なんて言っていますが、これはAさんにとってもBさんにとっても、同じ税率な訳ですね。これは考えてみるとどういうことなんでしょう?

 

 

 さて、今日はアリストテレスの「特殊的正義」の「配分の正義」をザッと考えてみました。質問や疑問があるかたは斉藤 亮太 (@ry0ta5a110) | Twitterまでどうぞ。

 

 

ハンナ=アーレントについてー大昔に読んだ『政治哲学5』を踏み台に

 こんにちは。斉藤亮太です。夜に「どんなテーマでブログあるいは記事を書いて欲しいですか?」というアンケートを飛ばして、お答えいただいた結果、「思想・哲学・宗教」分野が最多投票(2月15日11時03分現在)だったので、今日は「思想・哲学・宗教」分野で書こうと思います。しばらくはそのアンケートを基準に記事のテーマを決めていきます。これぞ「選挙」って感じなんですけどね。アンケート答えてくれた方には、私からの模擬投票をプレゼントしました。大して考えなかったでしょう? そんなもんですよ。(本物の選挙とは求められる思考レベルが違いますけど)

 

 

 今日は、ハンナ=アーレントに関して書きます。それも直近で読んだものではなく、1年くらい前に読んだ岩波書店の『政治哲学5』という本を軸に考えていきたいと思います。

 

I.「暴政」ってなんじゃい

 「「暴政」とは、人々が善く生きる可能性を不当に剥奪し暴力的に破壊する。それゆえに批判され克服されねばならない、最も悪しき政治である。」(p.55)。「暴政」とはどういうものかハンナ=アーレントはこう考えています。といっても、初めのうちは中々これが掴めないと思います。「Aとはこんなことをするものだ。だから、批判される。」という文章があったら、その前段は「Aはこんなものだ!」と言い換えてしまって結構です。原文に当たる場合は状況が異なってきますが、こういう記述では「Aはこんなものだ!」で結構です。つまり、この引用ならば「暴政って、人々が善く生きる可能性を不当に剥奪し暴力的に破壊する政体のことだ!」って理解すればいいわけです。

 

 はい。ここからまた操作を加えていきます。この操作は解釈するための因数分解です。「暴政って、1)人々が善く生きる可能性を2)不当に剥奪し3)暴力的に破壊する政体のことだ!」。暴政の定義を3つに区分しました。このように分解し、因数に解釈を加えていくことで、「暴政ってなんだ?」という問に応答することになります。そして、ここで憲法学の叡智を導入していきますね。憲法は権力の暴走を抑えるために存在するもので、大抵の条文に「国家は」という主語がつきます。これは省略されることが多いですが、例えば9条2項前段「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」。これに「国家は」を加えると「前項の目的を達成するために、国家は、陸海空軍その他の戦力を保持しない。」。

 

・第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」

→「国家は思想及び良心の自由を侵してはならない。」

・第21条2項「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」

→「国家は、検閲をしてはならない。国家は、通信の秘密を侵してはならない。」

こういった形で。アーレントの文章も基本的に同じです。

「暴政って、1)人々が善く生きる可能性を2)<国家が>不当に剥奪し3)暴力的に破壊する政体のことだ!」って。

 

II.「人々が善く生きる」?

 憲法学における、「国民」や「住民」といった単語の厳密な解釈はいりません。「人々」は「人々」です。生きている人間みんなと、これから生まれる人です。

 

  さて因数分解したはじめの「善く生きる」って何じゃい。ってことですが、これは一人ひとりが「善」に反せず生きることですね。うん。「善」ってなんだ? ってなるわけですね。この議論は率直に言って、荒れまくっています。「善」の定義は思想家によって天と地ほども違ったりするので。そのため、ここでは最も良識的なモノを挙げます。「善く生きる」とは、「一人ひとりの個人が他人の自由を侵さない限りにおいて、自分で自分のことを自由に決めて、自分の思いを達成させて生きることだ。」です。これには「自己統治」(自分のことは自分で決める)から、「自己実現」(自分のことは自分で決めて、その決断のための想いを実現させるぞ)へのシフトが見えます。そしてここに、「誰かの自由を奪わない限りね」という制限があることで、「何をしてもいい」ということは意味しないということになります。

 

 さてここでツッコミを入れましょう。この1の部分は、「人々が善く生きる可能性を」ですから、「可能性」も解釈する必要がありますね。「蓋然性」って言い換えることもできますが「起こりうることの蓋然性」が一般的な解釈ですが、政治哲学いわんや哲学の世界では「論理的な整合性を保ちつつ、考えられること、ありうること」とか「Aという行為が行える条件とそれを阻む条件のうち行える条件が優勢な状態」です。すなわち、体育でプールの授業をやる際に、a.すこしくらい雨が降ってもできるけど、b.警報が出たり、雷なったらだめといった規定があると仮定した時、「今日はプールの授業だけど小雨ながら雨が降っている。でも、警報も雷もないぞ!」となったらこれはa>bですから、政治哲学で言うところの「可能」なわけです。まぁ、正直に言うと、一般的用法と変わりませんが、「可能」を考えると「比較衡量が必要だよね」という1点だけは違うということを押さえてください。

 

 さて、「人々が善く生きる可能性を」は上のを合わせてこう理解しましょう。

「人々が善く生きる可能性を」とは、一人ひとりの個人が他人の自由を侵さない限りにおいて、自分で自分のことを自由に決めて、自分の思いを達成させて生きることが、比較して可能なこと」です。長っ! ここは私の実力不足です。 

 

  あとは、「2)不当に剥奪し3)暴力的に破壊する政体のことだ!」を解釈するわけですね。やれやれ

 

III.「不当に剥奪し」

 「不当に剥奪し」…きついところが来た。ここを乗り切れるかで、このアーレントの一文を理解できるかが、分かれます。大きく分かれます。「剥奪」は「強制的に取り上げること」ですからそのままです。ここの「強制的」が「非暴力的」か「暴力的」かで分けられるのですが、次の一文で「暴力的に」とあるため、「暴力によって強制的に取り上げること」と理解できます。

 

 来ました。「不当に」ここなんですよ問題は。アーレントの議論でむつかしいところは「自然法なんてないんだ」「神から与えられた権利なんてないんだ」ということなんです。大抵の理論においては、「なんかよく分からないけど、俺たちの想像もつかないような偉大な存在が俺たちを守ってくれていて、その守りに反すること」を「不当」とすればいいのですが、アーレントはここが違う。それがアーレント解釈の難所でもあるし、おもしろいところでもあるわけです。

 

 これまで通り、「不当ってなんだ!?」という問を投げてもうまく行きません。というのも、「正しくないこと」はすべて「正しいこと」への反論として提起されるからです(これをSeiZeeで書いたんですがまだ公開されていません)。つまり、「お年寄りに電車で席を譲るのはいいことだ!」(正しいこと)が、「お年寄りに電車で席を譲らないのはいけないことだ!」(正しくないこと)を返してくるんですね。まぁ、実際はこれもヒドい話だと以前「それでもあなたは席を譲りますか?|研究ノート」で指摘しているので、こちらも読んでいただけたら嬉しいです。

 

 脱線しましたね。「不当ってなんだ?」のためには「正当ってなんだ?」という質問を投げていただきたいと思います。そうしたら私は「正当って平等なことだ!」と返します。うわ…またか…大変だと思いきや、分かりやすいです。「平等って、すべてのヒトが同じ性質であるかのように同じことではなく、人々の間に差異があっても権利が等しく認められている状態だ!」。つまり「平等って、能力の差とかあって当然だけど、社会のすべてのヒトに同じ権利が認められていること!」って意味です。これは完全に「同権」な状態ですね。

・あいつにもこいつにも生きる権利があるなら、私にもある。

・あいつにもこいつにも働く権利があるなら、私にもある。

・あいつにもこいつにも教育を受ける権利があるなら、私にもある。

・あいつにもこいつにも政治に関わる権利があるなら、私にもある。

こういうことです。この「平等」に反することが「不当」に当たるわけです。

 

 この権利を傾斜的にいじることが不当ということですね。アーレントは、ナチスへの反対をこめ「思考」していますから、それに沿えば、「ユダヤ人は商売する権利ないけど、ドイツ人にはある」「ユダヤ人はドイツに住む権利ないけどドイツ人にはある」「ユダヤ人は生きる権利ないけど、ドイツ人にはある」というのおかしいぞ! 「不当」だぞ! と言っているということです。

 

 (ぼやき:福沢諭吉が言っている「天は人の上に人をつくらず」と実際同じじゃないか)

 

 ふう…やれやれ終わった。

 

 ここまでをまとめると一人ひとりの個人が他人の自由を侵さない限りにおいて、自分で自分のことを自由に決めて、自分の思いを達成させて生きられる可能性があるのに、社会のすべての人に同じくらい認められているはずの権利を」

 

IV.「暴力的に破壊する政体」

 あーここは楽。と思いきや、「暴力」の措定とかやっていると大変なことになるので、「物理的に危害を加えられること」でいいにしてください。これは「権力」と言い換えられる定義ですね。「権力」はヒトビトに唯一絶対の物理的暴力を<可能的に>(もう皆さん分かるようになりましたね?*1)行使できる「力」です。これをもって、「破壊」を行う政体が「暴政」です。

 

 つ・ま・り!!

 

 「暴政とは、一人ひとりの個人が他人の自由を侵さない限りにおいて、自分で自分のことを自由に決めて、自分の思いを達成させて生きられる可能性があるのに、社会のすべての人に同じくらい認められているはずの権利を、唯一絶対の暴力で破壊する政体」

 

 ゆえに、おかしいとアーレントは言うのです。「なんで? ヒトはみんな平等なのに、特定のヒトの権利だけ侵されるの? おかしいよね? そんなことする政体おかしいよね? ね? ヒトは平等なのに、特定のヒトだけ権利が厚く保障されるのもおかしいよね? そんなんおかしいよね?」と。そんな政体はおかしいんだ! と。俺も同感ですよ。引用した二文の解釈にここまでかけるのが、研究者の性なんですよね。ちなみに言うと、可能の定義を2つ提示したわけですから、その2つの「こっちだとこう」、「もう一方だとこう」ってのを、もっと考察しなければいけないわけですが、それは象牙の塔の中だけでいいでしょう。

 

 この記事を通して、皆さんに、論証とか文献の読み方とか、なんかそういう色々、リテラシーの涵養に必要なものを提供したつもりです。受け取ってもらえると嬉しい。(4578字だと…!?)

 

 

 

*1=一応書いておくと、「権力」は行使できる範囲を「法律」で定めているのですが、その中で「こういう時はダメ〜」「こういう時はダメ〜」って規定があります。これと、「こういう時は「暴力」つかっていいよ〜」という規定とで、前者<後者の場合、「可能的」なわけです。そしてこの規定に則っていれば、「正当」なわけです。「平等」を侵さない限りで法が制定されると考えた時ですけど。もちろん「平等」を犯す律法はそれ自体が「不当」ですけどね。

イスラエルとパレスチナの友人来訪に寄せて

 イスラエルパレスチナから中東の平和を願う若者たちが静岡に来た。彼らはいずれもが親族をイスラエルパレスチナの紛争で亡くしている人たちでした。私は何とありがたいことか、偶然彼らと触れ合う機会を捉えた。というのも、在籍している大学の広域ヨーロッパ研究センターが事業に協力したためです。

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 彼らとディスカッションをして感じたことは、彼らが紛争域で生きるためか日常の捉え方が「全然違う」ということである。私たち日本人の生活にも、ぼんやりと「死」はあるかもしれない。それは例えば交通事故とか、病気とかといった形のものが。しかし、彼らの生活には「死」そのものが横たわっている。交通事故や病気のみならず、民族紛争がある。生活に「銃」や「戦車」「戦闘機」が入り込んでしまったのです。日本では、それらは「非日常」です、間違いなく。

 

  そして彼らと話していて多くのことに気づかされた。例えば、パレスチナで毎日のようにイスラエル軍により殺される人々の話を。協定があるために拳銃の使用は表向きにはしていないことになっているが現実は違うとのこと。

 

  何よりそれを私たちは知らない。なぜだろうか。こんな示唆的なやりとりがあった。

"You, Japanese, don't know this, because media in English doesn't report."

 "I suppose you'd like to say 'So Japanese don't know?'"

"Yes, because of Israel."

(これを理解するのに5秒くらいの空白が必要だった)

"...OK. I understand. Our alliance is the US and America supports Israel, so we, Japanese, don't become against them. To make matters worse, we get information from media in English. So we cannot realize that all the more. Right?"

"Exactly."

 

おわかり頂けるでしょうか。本当にこういう会話でした。

 

www.at-s.com

 

  

 

 

www.chunichi.co.jp

 

 しかし、私はここで大きな異を唱えなければならない。それはこの日程のパッケージングをした人に対して。徹底的な、中東文化とりわけイスラム教への無理解、無教養、無配慮に。彼らの頭の中でどういった解釈で、かつどういった思考でこの日程が組まれたかも、料理や入浴の内容を組まれたかも分からない。大浴場しかない宿で、中東圏の女性がのびのびと入浴できるのだろうか?

 

 

www.yomiuri.co.jp

 

 彼らは安倍首相に思いを伝えて帰って行った。しかし、極めて残念なことだが、日本におけるメディアで彼ら一人ひとりの"story"はほとんど報道されていない。自分の腕のなかで妹が死んだことや、叔父と父がイスラエルに抗議して命を落としたことといった、一人ひとりの何よりも大切なことを伝えていなかった。彼らは何をしに来たのか。遺族者会としてその紛争の悲惨さを伝えに、そして止めてくれと言いに来たのに。以前、イスラエルパレスチナ紛争を、一時的にしろ止めた麻生太郎元首相のいる日本に何をしに来たのか。伝わらなかった彼らの想い。涙が止まらない。

 

最近ブログを毎日書くようになって変わったこと

 ども! SeiZeeライターの斉藤亮太です。SeiZeeでは書けないことばかり書くこのオフレコ・ブログで、好き勝手書いているのにSeiZeeのライターを名乗っていいのだろうか!?

 

 編集部から怒られない限り続けます笑。

 

 さて、今日は「毎日ブログを書くようになって変わったこと」について書きますね。

 

 毎日書いていると何に困るか分かりますか? そうですね、記事のネタですね。そうです。全くその通りです。僕も以前はそう考えていました。毎日書くとなるとネタを拾ってくるのが難しそうだなぁ、とか、ネタ切れで書けなくなるだろうとか思っとったんですね。

 

 ところが、実際毎日書いてみるとーまだ2週間とかだと思いますけどー、案外書けちゃうんですよね。そのせいか、SeiZeeへの寄稿数もやたらと増えてきています。なんか、いろんな人の記事が公開されたらSeiZeeもっとおもろくなるのに、俺のばっか最近公開されていますね。俺は記事書いているのがただただ楽しいので、まぁ、いいとしても…。

 

 ライターをやりたいけどネタに困っているそこの君。とりあえず毎日書いてみましょうぜ☆

夜間に安心して近所を歩けない国?

 こんにちは。SeiZeeライターの斉藤亮太です。最近、こんな画像が回ってきますね。

 

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 といったツイートも同時に流れています。さて、ここで疑問に思うことがあります。日本って本当に危険か? ってことです。

 

Safe streets?

 "Percentage of the population declaring feeling safe when walking alone at night in the city or area where they live(2014 or latest)" 

という問なんですね。なるほど。ならここで一応日本の犯罪統計を、平成27年版の『犯罪白書』から引用します。

 

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<1> 認知件数

    (前年比) [平成7年比]
刑法犯 1,762,912件 (-155,017件,-8.1%) [-27.6%]
うち一般刑法犯 1,212,654件 (-101,829件,-7.7%) [-32.0%]
 うち窃盗を除く一般刑法犯 315,395件 (-17,855件,-5.4%) [+48.5%]
うち自動車運転過失致死傷等 550,258件 (-53,188件,-8.8%) [-15.7%]

 

<2> 検挙件数

    (前年比) [平成7年比]
刑法犯 921,317件 (-76,593件,-7.7%) [-34.5%]
うち一般刑法犯 371,059件 (-23,405件,-5.9%) [-50.7%]
 うち窃盗を除く一般刑法犯  135,540件 (-4,102件,-2.9%)

[-18.3%]

 

平成27年版 犯罪白書 第1編/第1章/第1節より

 

 なるほど。「うち窃盗を除く一般刑法犯」は前年度件数は333,250件です。

 

 どれをとっても事件そのものは減っています。(認知件数*1なのには注意)*1=警察が把握できた犯罪の件数

 

 にもかかわらず、日本は危険なのでしょうか?  

 

 おそらくですが、私の感覚としては街が危険になっているために、この数字が出ているわけではないいと思います。

 

 さて、確認しましょう。アンケートの問は

Safe streets?

 "Percentage of the population declaring feeling safe when walking alone at night in the city or area where they live(2014 or latest)"

です。お気づきになりましたか? "feeling"です。つまり、各人の主観的な判断として「夜間の街は一人で歩くには危ない」と提示されているにすぎないのです。ここでひとつ断っておくと、この「感覚」を否定するつもりは一切ありません。

 

 

 私がここで言いたいことは、この調査が我々に暗示することは、社会が実態として「危険になっている」ということではなく、人々の猜疑心が強まっている、ということではなかろうか、ということです。

 

 疑心は誰もが持つものであることは言うまでもありませんが、それがもし強まっているとしたら、「社会が危険になっている」のではなくて、「社会不安が高まっている」ということを意味するのではないのでしょうか。 

 

 

  さて、メディアに関わるものとして気に留めておく必要が有ることですが、社会において何らかの空気感や共通意識がつくられるのはマス・メディアの作用が大きいということは論を俟ちません。つまり、社会に不安が渦巻いているとしたらそれはメディアの操作の確率が高いです。逆も同じく、国民社会全体が高揚感につつまれる場合も同じです。

 

 

 しかし、もし仮に上記の予測が合っていて「社会不安の高まりゆえの猜疑心の伸長」があるのだとしたら、それは人々の心の中に「恐怖」を生み出すこととなり、自己防衛のために凶暴性を持つようになる恐れがあることを押さえておく必要があるでしょう