ハンナ=アーレントについてー大昔に読んだ『政治哲学5』を踏み台に

 こんにちは。斉藤亮太です。夜に「どんなテーマでブログあるいは記事を書いて欲しいですか?」というアンケートを飛ばして、お答えいただいた結果、「思想・哲学・宗教」分野が最多投票(2月15日11時03分現在)だったので、今日は「思想・哲学・宗教」分野で書こうと思います。しばらくはそのアンケートを基準に記事のテーマを決めていきます。これぞ「選挙」って感じなんですけどね。アンケート答えてくれた方には、私からの模擬投票をプレゼントしました。大して考えなかったでしょう? そんなもんですよ。(本物の選挙とは求められる思考レベルが違いますけど)

 

 

 今日は、ハンナ=アーレントに関して書きます。それも直近で読んだものではなく、1年くらい前に読んだ岩波書店の『政治哲学5』という本を軸に考えていきたいと思います。

 

I.「暴政」ってなんじゃい

 「「暴政」とは、人々が善く生きる可能性を不当に剥奪し暴力的に破壊する。それゆえに批判され克服されねばならない、最も悪しき政治である。」(p.55)。「暴政」とはどういうものかハンナ=アーレントはこう考えています。といっても、初めのうちは中々これが掴めないと思います。「Aとはこんなことをするものだ。だから、批判される。」という文章があったら、その前段は「Aはこんなものだ!」と言い換えてしまって結構です。原文に当たる場合は状況が異なってきますが、こういう記述では「Aはこんなものだ!」で結構です。つまり、この引用ならば「暴政って、人々が善く生きる可能性を不当に剥奪し暴力的に破壊する政体のことだ!」って理解すればいいわけです。

 

 はい。ここからまた操作を加えていきます。この操作は解釈するための因数分解です。「暴政って、1)人々が善く生きる可能性を2)不当に剥奪し3)暴力的に破壊する政体のことだ!」。暴政の定義を3つに区分しました。このように分解し、因数に解釈を加えていくことで、「暴政ってなんだ?」という問に応答することになります。そして、ここで憲法学の叡智を導入していきますね。憲法は権力の暴走を抑えるために存在するもので、大抵の条文に「国家は」という主語がつきます。これは省略されることが多いですが、例えば9条2項前段「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」。これに「国家は」を加えると「前項の目的を達成するために、国家は、陸海空軍その他の戦力を保持しない。」。

 

・第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」

→「国家は思想及び良心の自由を侵してはならない。」

・第21条2項「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」

→「国家は、検閲をしてはならない。国家は、通信の秘密を侵してはならない。」

こういった形で。アーレントの文章も基本的に同じです。

「暴政って、1)人々が善く生きる可能性を2)<国家が>不当に剥奪し3)暴力的に破壊する政体のことだ!」って。

 

II.「人々が善く生きる」?

 憲法学における、「国民」や「住民」といった単語の厳密な解釈はいりません。「人々」は「人々」です。生きている人間みんなと、これから生まれる人です。

 

  さて因数分解したはじめの「善く生きる」って何じゃい。ってことですが、これは一人ひとりが「善」に反せず生きることですね。うん。「善」ってなんだ? ってなるわけですね。この議論は率直に言って、荒れまくっています。「善」の定義は思想家によって天と地ほども違ったりするので。そのため、ここでは最も良識的なモノを挙げます。「善く生きる」とは、「一人ひとりの個人が他人の自由を侵さない限りにおいて、自分で自分のことを自由に決めて、自分の思いを達成させて生きることだ。」です。これには「自己統治」(自分のことは自分で決める)から、「自己実現」(自分のことは自分で決めて、その決断のための想いを実現させるぞ)へのシフトが見えます。そしてここに、「誰かの自由を奪わない限りね」という制限があることで、「何をしてもいい」ということは意味しないということになります。

 

 さてここでツッコミを入れましょう。この1の部分は、「人々が善く生きる可能性を」ですから、「可能性」も解釈する必要がありますね。「蓋然性」って言い換えることもできますが「起こりうることの蓋然性」が一般的な解釈ですが、政治哲学いわんや哲学の世界では「論理的な整合性を保ちつつ、考えられること、ありうること」とか「Aという行為が行える条件とそれを阻む条件のうち行える条件が優勢な状態」です。すなわち、体育でプールの授業をやる際に、a.すこしくらい雨が降ってもできるけど、b.警報が出たり、雷なったらだめといった規定があると仮定した時、「今日はプールの授業だけど小雨ながら雨が降っている。でも、警報も雷もないぞ!」となったらこれはa>bですから、政治哲学で言うところの「可能」なわけです。まぁ、正直に言うと、一般的用法と変わりませんが、「可能」を考えると「比較衡量が必要だよね」という1点だけは違うということを押さえてください。

 

 さて、「人々が善く生きる可能性を」は上のを合わせてこう理解しましょう。

「人々が善く生きる可能性を」とは、一人ひとりの個人が他人の自由を侵さない限りにおいて、自分で自分のことを自由に決めて、自分の思いを達成させて生きることが、比較して可能なこと」です。長っ! ここは私の実力不足です。 

 

  あとは、「2)不当に剥奪し3)暴力的に破壊する政体のことだ!」を解釈するわけですね。やれやれ

 

III.「不当に剥奪し」

 「不当に剥奪し」…きついところが来た。ここを乗り切れるかで、このアーレントの一文を理解できるかが、分かれます。大きく分かれます。「剥奪」は「強制的に取り上げること」ですからそのままです。ここの「強制的」が「非暴力的」か「暴力的」かで分けられるのですが、次の一文で「暴力的に」とあるため、「暴力によって強制的に取り上げること」と理解できます。

 

 来ました。「不当に」ここなんですよ問題は。アーレントの議論でむつかしいところは「自然法なんてないんだ」「神から与えられた権利なんてないんだ」ということなんです。大抵の理論においては、「なんかよく分からないけど、俺たちの想像もつかないような偉大な存在が俺たちを守ってくれていて、その守りに反すること」を「不当」とすればいいのですが、アーレントはここが違う。それがアーレント解釈の難所でもあるし、おもしろいところでもあるわけです。

 

 これまで通り、「不当ってなんだ!?」という問を投げてもうまく行きません。というのも、「正しくないこと」はすべて「正しいこと」への反論として提起されるからです(これをSeiZeeで書いたんですがまだ公開されていません)。つまり、「お年寄りに電車で席を譲るのはいいことだ!」(正しいこと)が、「お年寄りに電車で席を譲らないのはいけないことだ!」(正しくないこと)を返してくるんですね。まぁ、実際はこれもヒドい話だと以前「それでもあなたは席を譲りますか?|研究ノート」で指摘しているので、こちらも読んでいただけたら嬉しいです。

 

 脱線しましたね。「不当ってなんだ?」のためには「正当ってなんだ?」という質問を投げていただきたいと思います。そうしたら私は「正当って平等なことだ!」と返します。うわ…またか…大変だと思いきや、分かりやすいです。「平等って、すべてのヒトが同じ性質であるかのように同じことではなく、人々の間に差異があっても権利が等しく認められている状態だ!」。つまり「平等って、能力の差とかあって当然だけど、社会のすべてのヒトに同じ権利が認められていること!」って意味です。これは完全に「同権」な状態ですね。

・あいつにもこいつにも生きる権利があるなら、私にもある。

・あいつにもこいつにも働く権利があるなら、私にもある。

・あいつにもこいつにも教育を受ける権利があるなら、私にもある。

・あいつにもこいつにも政治に関わる権利があるなら、私にもある。

こういうことです。この「平等」に反することが「不当」に当たるわけです。

 

 この権利を傾斜的にいじることが不当ということですね。アーレントは、ナチスへの反対をこめ「思考」していますから、それに沿えば、「ユダヤ人は商売する権利ないけど、ドイツ人にはある」「ユダヤ人はドイツに住む権利ないけどドイツ人にはある」「ユダヤ人は生きる権利ないけど、ドイツ人にはある」というのおかしいぞ! 「不当」だぞ! と言っているということです。

 

 (ぼやき:福沢諭吉が言っている「天は人の上に人をつくらず」と実際同じじゃないか)

 

 ふう…やれやれ終わった。

 

 ここまでをまとめると一人ひとりの個人が他人の自由を侵さない限りにおいて、自分で自分のことを自由に決めて、自分の思いを達成させて生きられる可能性があるのに、社会のすべての人に同じくらい認められているはずの権利を」

 

IV.「暴力的に破壊する政体」

 あーここは楽。と思いきや、「暴力」の措定とかやっていると大変なことになるので、「物理的に危害を加えられること」でいいにしてください。これは「権力」と言い換えられる定義ですね。「権力」はヒトビトに唯一絶対の物理的暴力を<可能的に>(もう皆さん分かるようになりましたね?*1)行使できる「力」です。これをもって、「破壊」を行う政体が「暴政」です。

 

 つ・ま・り!!

 

 「暴政とは、一人ひとりの個人が他人の自由を侵さない限りにおいて、自分で自分のことを自由に決めて、自分の思いを達成させて生きられる可能性があるのに、社会のすべての人に同じくらい認められているはずの権利を、唯一絶対の暴力で破壊する政体」

 

 ゆえに、おかしいとアーレントは言うのです。「なんで? ヒトはみんな平等なのに、特定のヒトの権利だけ侵されるの? おかしいよね? そんなことする政体おかしいよね? ね? ヒトは平等なのに、特定のヒトだけ権利が厚く保障されるのもおかしいよね? そんなんおかしいよね?」と。そんな政体はおかしいんだ! と。俺も同感ですよ。引用した二文の解釈にここまでかけるのが、研究者の性なんですよね。ちなみに言うと、可能の定義を2つ提示したわけですから、その2つの「こっちだとこう」、「もう一方だとこう」ってのを、もっと考察しなければいけないわけですが、それは象牙の塔の中だけでいいでしょう。

 

 この記事を通して、皆さんに、論証とか文献の読み方とか、なんかそういう色々、リテラシーの涵養に必要なものを提供したつもりです。受け取ってもらえると嬉しい。(4578字だと…!?)

 

 

 

*1=一応書いておくと、「権力」は行使できる範囲を「法律」で定めているのですが、その中で「こういう時はダメ〜」「こういう時はダメ〜」って規定があります。これと、「こういう時は「暴力」つかっていいよ〜」という規定とで、前者<後者の場合、「可能的」なわけです。そしてこの規定に則っていれば、「正当」なわけです。「平等」を侵さない限りで法が制定されると考えた時ですけど。もちろん「平等」を犯す律法はそれ自体が「不当」ですけどね。