マイノリティーって?

 2/12に友人の誕生日パーティーに行ってきました。彼は本当にステキな人で、つつまず言えば大好きですね。

 そのパーティーの途中に、ふと感じたことがあります。マイノリティと思われがちな人。例えば政治家。「わかもの×対話×政治」の中で、イベントの目標のひとつとして、「政治家である前にただの人ってことを一緒に感じる」を掲げているので「政治家もただの人」って言ってもらえるのは、ありがたいですが、考えてみれば、「ただの人」じゃないのってどんな人だろうか。もし、自分が「おまえはただの人じゃない」って言われたら、その通りだなぁ、と思うけど、なんかモヤモヤ。

 「普通の人」って考えるようになることは、その前提に「普通の人じゃない」「異常な人」といった壁や先入見があると考えられる。これは「自己を伝えることは人々を結びつけるが、それはまた対立を生み出すことでもある。」(亀喜信、2010)ってことですよね。「自己を伝えることが対立を生む」確かに、そういう空気はありますけれど、何か気持ち悪い。亀喜氏は先のに続き「個を尊重することは対立を受け入れることであり、いかなる対立もなくしてしまうことは個を否定することに他ならない。」と書いている。

 対立が「個の尊重」に先立ち、その対立を受容することが「コノソンチョウだ」と。対立を消し去ることは、対立を否定するあるいはないとみなすことでー、その先の「個の尊重」も同時に否定あるいはなくなってしまうのだから、結果として「個を否定すること」になる、ということか。うん。気持ち悪い。

 性的マイノリティであれ、人種マイノリティであれ、その他のいずれのマイノリティであれ、「マイノリティ」という現れを、この表現によって強調する理由はなんだろうか。もちろん、社会には少数者を虐げる風潮がある。それを是正するためだ、という考えがあるのかもしれないが、私はなぜ少数者を排除する傾向が存在するのかがまず分からない。「自分と違うから」という理由もあろうが、それが通るのならば「人は社会など構成しえるのか?」と。うーん。

 「違いがあって当たり前」なのが個的存在であって、その個的存在を「対立」をもって描出する試みは何となく気持ち悪い。ハンナ=アーレントの言う「公的領域」は「他の人とお互いに理解し合うために自己を伝える場」を指す。

 また個人は他者からの視点によって自らをより理解すると述べる。Joseph Luft(米、心理学者)を援用すると、「ジョハリの窓」の、1)開放の窓(みんなが知っている自分)、2)盲点の窓(自分は知らないけど他者は知っている自分)、3)秘密の窓(自分しか知らない自分)、4)未知の窓(誰も知らない自分)の内の、1と2と3を統合していく作業になるわけだから、当然、誰かと視点の受け取り合いがなければ成し得ない。それゆえに、この確からしさを認めると、公的領域は必要と言えるけれど、この公的領域が先の考えだと、「対立を認識する領域」であって、その対立を認識し受容することが「個の尊重」につながる? いやいや、つながらないでしょ。

 「対立」があるというのは認めるとして、しかしその先にはそれの「受容」と「敵対」と「無関心」が存在して(「無関心」はこの文章の射程ではないので考えない)、とすると、すべからく「対立ー敵対」構造が生まれて、公的領域内においてはマイノリティと言われる人は攻撃され続けてしまう恐れが生じる。これではうまくいかない。

 あくまで私は、性的少数者であれ(日本における)人種的マイノリティであれ、国籍的マイノリティであれ、出生地マイノリティであれ、「違う」ということを強く確認ーいや、意識することさえ必要がないと思っている。私は以前から金子みすゞ氏の「みんな違ってみんないい」という言葉が、もし「違うということを認識した上で、その差異は良いことなんだと思う」ってことを意味するならば、嫌いです。だって「違う」ということ自体は大切かもしれませんが、「違う」と強く認識するということは「対立」を意図せず孕むことになるんですから。

 これもあくまで個人的にですが、「違う」なんてことはどうでもよくて、「他の人とお互いに理解し合うために自己を伝える場」の「公的領域」において相手を理解する、知ろうとするという姿勢が重要で、それをすることで相手の性質や美徳を吸い込むことが求められているのだと思います。

 LGBTの友人のパーティーでしたが、私の中では彼がLGBTであるなんてことは、結構どうでもよくて、存在してくれていること、そして彼のことを知れることの方が大切なんです。その中でーこんなこと書くと差異を認識しようとしているわけで、嫌ですけどー彼がLGBTであるということを知り、その美徳を吸収していく方がよほど貴重だと。自分のことを公的領域で表現しよう、自己を伝えよう、自分の思いを実現するために動く。誰かを理解するために、知るために聴く。こういった行為で他の人たちと一緒に生きよう、って考えていきたいかな。
 
 途中からイマイチ何を言っているか分からないかもしれないけど、とりあえず菊本 寛 おめでとう笑。また会いましょうぞ。