極に触れる世界。見えない未来に生きる。

最近、世界情勢を見ていて感じることがある。それは、極主義が出てきているな、ということです。

 

つまり、極右勢力や極左勢力のことを指すのですが、自由主義&民主主義VS計画経済体制&共産主義であった冷戦期のイデオロギー対立とは異質なもので、比較しづらいのですが、市場に制限を設けて、ある範囲の中における活動を担保する「とっても福祉国家」VS「なすがままになせ」という言葉に示される自由放任主義(レッセフェール)的なもの、つまり「とっても夜警国家」な感じです。

 

でも、他にもこれまでの反省を活かして、現実の問題発見からスタートし、それを解決しようとする中道主義もやはり力を持っているために、解釈を困難にしているのですが、それにしても各国で極右や極左というくくりは必ずしも当てはまるとは思えませんが、いずれにせよなんかの思想に大きく振れている勢力が強いな、ということです。

 

 

例えば、アメリカのトランプやテッド・クルーズ、イギリスのコービン、フランスのルペン、ドイツのフランク・フランツ(ドイツ国家民主党党首。なんと欧州議会に1議席を持っている)、ギリシャ黄金の夜明け(なんと第3党)が挙げられる。

 

自由と民主主義を守るアメリカや、歴史と名誉ある議会制民主主義のイギリス、「自由・平等・博愛」のフランス、古代ギリシア文化の承継者にして東独の共産主義を排し、自由を得たドイツ、香り高く格式高い西洋学問の礎を築いたギリシャでその様な、あまりにも振れた勢力が台頭しているのは大変残念でならない。

 

学問の試みは、常に人々を過去の過ちから学ばせ、ともすれば感情的になりがちな人々を人間が蓄えた経験による反省に立ち返らせることのはずです。ところが、これまた大変残念なことに学問がその役割を果たせていません。

 

近代から現代における、メディアの発展で知識人としての研究者が、コメンテーターと言われる人々に取って代わられ、その学問の蓄積を活かす場が減じてきているからでしょうか。

 

あるいは、インターネットの発展により、あまりにも拙劣な論があまりにも多くの人の目に触れる様になったためでしょうか。これは今の段階では、断定することはできません。

 

いずれにせよ、ナチス宣伝省が行った様に、「批評活動の禁止」が少しずつそれも初めはいい目的で始まり、いつの間にか信じられないほど広範に及んでいたという様な状況に陥らないことを祈るばかりです。