「こどもの虐待」に反対する人々への反論

近頃、「こどもの虐待」のニューズが連日放送され耳目を集めている。個人的にも、暗澹たる気持ちであり、このような暗い事件が社会を覆う事態に極めて大きな危惧を抱いている。

 

巷における人々の談義の中で、「同じことをやってやればいいんだ」とか、「拷問してから殺せばいい」という言葉が飛んでいる。一昨日、飲みに入った居酒屋で、酔った勢いか知らないが、吐き気が際限なく押し寄せ、この上なく冷徹な一瞥を下し、罵倒したくなるような下賎な話に出会ってしまい、ファースト・ドリンクが提供される前にお会計をお願いし、店を出た。そして、興が冷め帰途にそのまま着いた。

 

 

言うまでもないが、日本は「拷問等禁止条約」の当事国であり拷問は行えない。

 

ある国のAさんが罪を犯したときに、Aさんだけに責任を帰せることは果たして妥当なのだろうか。私は、このことに極めて懐疑的である。ところが、実は、先述の発言に対し、同席者が「そういうことをする人を生んでしまった社会にも問題があると思うな。だから、俺たちができることをしなきゃですよ。」と言っていたことで、捨てたもんじゃないない、と感じたのは事実である。

 

 

虐待の恐ろしさと卑劣さは、この「未定」を読む諸兄にとって今さら言及してもお叱りを受けるだけであり、記すまいが、それに気づけていない人がいることは事実であり、目を背けてはならない。

 

 

実は、私個人の話をすれば、幼少期に親に殴られたことはあるし、学校では先生に殴られ蹴られたこともある。そのせいか、「法とは何か?」「政治とは何か?」を考える際の出発点は必ず「暴力」であるし、ホッブズの言う「自然状態」における「物理的暴力」によって生じる「死への恐怖」には極めて現実的で、事実、自らにとって大変脅威になる仮定であると、その説得性に常日頃、舌を巻いているのだ。人間の歴史を顧慮すれば、人々から「暴力」を取り上げることができないなど分かりきっている。

 

もし、ニンゲンから原子力爆弾を取り上げれば、長距離戦略兵器で戦うし、長距離戦略兵器を取り上げても、中距離兵器で戦う。中距離兵器をとりあげても短距離兵器で。短距離兵器をとりあげても重火器で。重火器をとりあげても小火器で。小火器をとりあげても刀で。刀をとりあげたらナイフで。ナイフをとりあげたら鉄パイプで。鉄パイプをなくした木の棒で。木の棒をなくしても石を投げ合って。石をなくしたら、拳で戦う。これは万代普遍の真理であるように思えてならない。もし、この世界から「暴力」をとりさりたいならば、ニンゲンを全て駆逐しなければならないだろう。

 

私は、この人間本生に対する言語に絶する不信を、政治思想を考える上で持っている。これは、性善説とか性悪説とかいう低いレベルの話ではなく、リアリスティックな考察視座として保持しているということである。自らもそういった下卑た性質を持っていることを怜悧に見つめている。そのため、自らこどもに虐待を加えることのないように律しなければと感じているし、「こどもの虐待」をしている人々に対して、同害復讐をし、暴力に拍車をかけるようなことをしてはならないと肝に銘じる。

 

 

蛇足だが、人間本生に対する不信はあろうとも、現実における友人たち全てにこれを向けている訳ではない。もちろん常に疑う姿勢は学問をやる上で何よりも大切であろうと信じているが。

 

 

やべっ、なんの話してたっけ!?