投票しよう活動が嫌いな理由

最近、18歳選挙権の動きもあってか、「投票行きましょう!」という活動がやたらと増えてきた。 各選挙管理委員会が鼻息荒く常時啓発活動の一環として、どこかの団体とコラボするなどして行っている模様。なるほど確かに投票に行く行為は重要かもしれないが、投票というアクションが本当の意味で重要になるのは、候補者の政策や党の公約を比較検討し、有権者が考え抜いた先に投票した際に限るだろう。

 

 

たとえば、これは方々で口を尖らせ酸っぱく言ってきたことだが、「投票所で鉛筆転がして投票先決めていたってそんな投票意味がない」し、「候補者が有名だったりイケメンだから投票するのも意味がない」、さらには「あの党支持だから、あの党の候補者に投票するというのも多くの場合無意味」だ。「その党の政策全てについて賛成なんですか?」

 

 

思考をバックとして投票が行われない限り、その行為は社会的活動とは呼べないと考えている。それは形式にすぎない社会的儀式、あるいは社会的お遊戯だ。人々が自らの住まう社会のことを考えに考えぬくからこそ有意味な投票になるのではないだろうか。いつまでも「投票行きましょう」ではなくそろそろ「一緒に考えてみません?」というような、対話と思考ベースにシフトしていきたいものだ。