【悲報】政治系の記事書けなくなりました

 みなさん、こんにちは。今日は、ちょっと深刻なお話を。実はですね、今まで書いてきたものの信頼を揺るがしかねない、とか思ったんですが、そもそも私のことを信頼してるのはちょっと…笑

 

 私はSeiZeeで、「思想・哲学・宗教」「政治」「文化」担当のライターをしています。その中で私はとりわけ政治系だと思われています。それもそのはず、現在SeiZeeで公開されているわたくしが書いた18本の記事のうちの、10本。つまり約5.6割。半分以上が「政治」分野のものですから。ちなみに、SeiZeeの「政治」カテゴリーには73記事出ておりまして、私はそのうちの約14%を書いているわけです。もうマジで「政治」系ライター。

 

 ところがですよ。先日の成績開示においてですね…なんと「政治学」の単位を落としていました。えっとなんと言えばいいのか。必死に、マジメに、黙って書き続けるのもいいと思うんですけど、そりゃー事実を伝えるライターたる者許されないと、いつもなら無い正直で男気溢れる、静岡は安倍川の水源、隆々とした赤石山脈のような気骨がいきなり顔を見せた次第です。

 

 …まぁ、ここで何かを言っても意味が無いと思いますが…「政治思想史」と「西洋思想」は間違いなく「秀」を取っているので、許していただければと(震え声)。ちなみにですけど、「思想・哲学・宗教」分野の記事はSeiZee全体で23記事公開されているんですが、私が7本書いているので約3割です。私は、そう。約30%の「思想・哲学・宗教」記事を書いているので、「政治」というよりもむしろ「思想・哲学・宗教」系ライターです。そういうことでよろしく…!!

 

平和って何よ?

 ども。静岡の斉藤さんだよ。今日はね、「平和」について考えてみようと思うんだ。でもね、先に言っておくの。案外ね、重くなる(予定)だから、もしきついかなって思ったらブラウザバックを推奨します^^b(読まなくていいよって言い出すライターってなんなんだw)

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 今日かんがえる「平和」には、イマニュエル・カントさんに登場してもらうよ。あ、Yesご明察。『永遠平和のために』を引きます。これから引用部は特段断りがない場合、岩波文庫の宇都宮芳明訳第45版に沿うね。

 

 この著の中でカントがどんなことを主張しているか、を知るために、現代国際政治の泰斗京都大学中西寛教授の『国際政治とは何か 地球社会における人間と秩序』を参照してみますね。

カントはこの小著の中で、平和が永続的なものとなるための条件を掲げている。その条件の中でも重要なのは次の三つ(カントは確定条項と呼んでいる)である。第一に、「各国家における市民的体制は、共和的でなければならない」こと、第二に、「国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべき」こと、第三に、「世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない」ことである。重要なのは、カントがこれらの条件を一つの順序として考えていることであり、結果として、世界市民法については、不可欠だが補足的な位置づけしか与えていない、ということなのである。

ー226頁

  1. 「各国家における市民的体制は、共和的でなければならない」
  2. 国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべき」
  3. 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない」

この3つの確定条項が順々に起きていくことで、世界が「平和」になるとカントさんは考えたんですね。なるほどなるほど。そしてこれをとってもわかりやすく書いてくれている本があるんですね。それはズバリ『国際政治学』。いや〜もうやっぱり中西寛教授が編著者ね。そして東京大学の石田淳教授と慶應義塾大学の田所昌幸教授というステキな布陣の本です。そして安定の有斐閣!!

国家が自由な人民の意思を反映する共和制をとり、諸国家の法が自由な国家の連合に基礎を置き、世界市民法が普遍的な友好についての諸条件に限られるような状態が望ましく、かつ最終的に実現可能であり、戦争を含む歴史的展開を経て人類が恒久的な平和体制を実現することを期待した

ちなみにこの解説はケンブリッジ大学Harry Hinsley教授の権力と平和の模索――国際関係史の理論と現実』の要約とのことですよ〜。

 

 さてさて、この確定条項をまとめてみますね。国内のシステムを自由化と民主化して、国家間関係ををよくしていこ〜! ってな感じですかね。異文化の社会を野蛮視したり、現地を無視して自分の主張をむりやり押し通すなんておかしいよね、って。

 

 そしてそして実はこの確定条項は『永遠平和のために』の中の第2章で書かれていることなんですね。そこで、今回は第1章をチャチャッと見てみましょうぜ!

 

第一章 この章は、国家間の永遠平和のための予備条項を含む

 第一条項 将来の戦争の種を密かに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。

 第二条項 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということがあってはならない。

 第三条項 常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない。

 第四条項 国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない。

 第五条項 いかなる国家も、他の国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない。

 第六条項 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。

です。これをpp.13~26で語り切るんですから稀代の思想家とはかくも優秀なるものか、って思っちゃいますよね。といっても、何を言っているか…難しいので簡単にしちゃいますね。

  1. 戦争の種になるような平和条約結ぶな、アホ
  2. とある国家を他の国が所有して支配するなんて無理無理
  3. 軍隊なくせよ
  4. 戦時国債発行禁止〜♪
  5. 暴力で他国に介入するの反対!
  6. 戦争している時に、終結後にお互いを信頼できなくなるようなことすんなよ!?

こんなかんじでいいですかね?  

 

 みなさん上の6つを見て「なんでっ!?」って思いましたか? カントの応答書いていきますね!

  1. いやだってそれ、「平和」になってないじゃん。ただの休戦じゃんw
  2. 国家って誰かの所有物じゃないでしょ?  自分以外が意思決定をしちゃいけない市民社会の総体が国家じゃん? 所有して支配なんてできないじゃん?
  3. だって、常備軍あったらいつでも戦争できるんでしょ? 他の国を常に恐怖に陥れるわけじゃん。そんなん平和にならんよ。
  4. 戦争遂行のための金を際限なく手に入れられて、戦争長引くし危険じゃん?
  5. 自分のものじゃない他の国家に干渉する権利なんてないだろ
  6. 戦争中でも相手に対して、戦時国際法は守るみたいな何らかの信頼はあるはずなのにそれが存在できなくなるからね

です。案外わかりやすいですよね。でもでも、これ本で読むとわかりづらい記述なんですよね…

 

 ところで、いきなりですけどこれ可能だと思いますか?  ニシシ。考えたいのはここからですよね。カントは厳格なリベラリストで、もし万が一彼が構想したように世界が動いたら実はまさしく「平和」が訪れる様な理論を展開しています。ただ残念なことに、上でみたきた様な『永遠平和のために』の世界はなかなかどうして実現しそうにありませんね。うん。だって、「カントの理論と現実は違うから」っていう声が聞こえてきそうですけど、実はちょっと違って「理論と現実は違うから」という錦の御旗(?)を掲げて実現させようとしない人がたくさんいるからですね。

 

 「確かにその通りになったら平和になる。でもしかしね、現実問題としては…」って。あちゃー。同意しつつ否定する感じですね。う〜ん。そうじゃないんだよなぁ。もし、世界の人すべてが「そうだね。そうしてみようか。」ってなったら話は全然変わると思いませんか? つまり、総ての人がカントの言う通りに行動したら、ひょっとして「永遠平和」が訪れるかもしれないと思いませんか? 「どうせできない」「現実的じゃない」その言葉で理論を口撃する人たちは何かを見落としている気がしてなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ま、こんなこといいつつも私は『永遠平和のために』の構想実現はむずかしいな、と思っていたりしますけどね。私たちが生きている間はテヘッ

冬の雨がどうしても気持ちを煽るの

 こんにちは。斉藤です。お恥ずかしながら数日、消えておりました。 というのも、私の家にある「怠惰の部屋」という魔窟にこもっていたためです。その部屋のベッドかソファーの上に1日16時間くらいいました…

 

 そんな快適なベッドー癒しの雲と呼んでいるんですがーと、昼寝にちょうどいい大きさのソファーこれはシエスタ・マスターですーの上で、何をするでもなく本を眺めー読んでいませんーて、ダラダラと怠惰に。寒い寒いと言いつつも、結局ぬるい静岡で、そんなことでは良くないな、と。

 

 ところで皆さん僕のこと覚えてますか? 笑

昨日、「ウェブサイトで分かるアメリカ大統領選挙」なんて記事を書きましたが、ほとんど奇跡のような執筆でしたね。ちなみに、「怠惰の魔窟」で書きました。この記事は「寒々しい部屋」で書いています。この部屋には本と机と電気とパソコン以外ほとんど何もありません。ミニマリズムな部屋を目指したので。この「寒々しい部屋」が学問などなど集中する時向けです。

 

 さて、そんなどうでもいいことは退けて。怠惰に堕していたなんてこと、言っても株が下がるだけだから言いたくない。だけど、少し知ってほしいからひっそりと書いてみる。なんだか大切な恋文を秘めているかのような心持ちになってしまった。こういうところが奥ゆかしくていいな、とか思ってるんですが多くの皆さんが私のそういうところを嫌っているなんて知ってるんだから!

 

 取り乱しました。ペンネームがバレるような筆致なのでこれ以上は書きません。タイトルにもなんの意味もありません。さて、これから徐々に戻って書いていくことにします。

 

 それでは、またな!

プラトン「借りたものは返すな!」

 こんにちは。SeiZeeライターの斉藤亮太です。粛々と毎日更新してきて、どうやら今日でひと月のようです。「継続は力なり」何て言いますけど、案外本当な気がしています。ただ継続しているのは「書く」ということで、同じことではないということは重要ですね。例えば、腕立て伏せを毎日50回やるのはいいことでしょう。逓増させる必要はありますけどね。ところが、毎日同じ文章を書くというのは暗記以外にいい点はないわけですね。「継続は力なり」は2つの形態を持っているということです。それは1)毎日同じことを繰り返す形態と、2)毎日同じことを違ったやり方でやり続けることですね。私が毎日ブログを書くことで涵養できた「力」は2の形態によるものです。

 

 さて、余談はここまでにして。さっそく題名の話をしますか。題名はミス・リーディングを誘うように書いたに過ぎないので、勘弁してください。この題名だけを見て「プラトンは借りたものを返さなくていいだぜって言ったんだよ」なんて言った人に恥をかかせようなんてそんな気持ちは、そこまで大きくないわけです。え?

 

 気になって読んでくだされば、と笑

 

たとえば、こういう場合はどうでしょうか? 友人から武器をあずかったとする。そのときは正気だったその友人が、あとで気が狂って、狂ってから返してくれと言ってきたとする。−このような場合、すべての人が次のことを認めるでしょう。すなわち、そんなものは返してはならないし、またそれを返す者、さらには、そういう状態にある人間に向かってほんとうのことを何もかも話そうとする者も、けっして<正しい人>とは言えまい、ということはね。

−『国家(上)』、プラトン岩波文庫、26項

 

 こういうことです。プラトンは場合を限定して、「こんなときは返すな」と言っているんです。だから「借りた者は返すな!  その相手が狂っている場合は!」って書くべきなんですねほんとうは。ところが紙幅がそれを許さなか…はい。まあいいよね。許して。

 

 分かりやすく、並べると

  1. 友人から銃を預かる
  2. その後、友人発狂
  3. 発狂した友人が銃を返せって言ってくる
  4. 返しちゃダメだろ!?

こういうことです。プラトンはすべての人が「返しちゃダメ!」に賛同するよね、と言っています。うん。俺もそう思う。返した瞬間自分が撃たれるかもしれないんだよ? 返すの?

 

 このように、預かったモノという自らに所有権が帰属しないモノを所有権者に返さないのが「正しい」こともあるんだってことですね。しかも、そういう人に本当のことを言う事だってやめたほうがいいって言うんです。

 

 例えば、AさんがBさんに殺されそうになって逃げています。Cさんの家にAさんが逃げてきました。CさんはAさんを匿いました。そこにBさんがやってきて、「Aの居場所を知らないか!?」とCさんは聞かれました。Aさんは地下室に隠れています。さて、CさんはBさんに本当のことを言うべきでしょうか? 

 

 いやいや。まずいですよね。下手したらAさん殺されちゃいますもんね。だからこんな時には、嘘をつくのも許容範囲なのかもしれません。「ここにはいないよ」とか。

  

 ところが、イマニュエル・カントは「Aさんが殺されるかもしれない!」といった状態においても、CさんはBさんに嘘をついてはいけない! って言うんですね。なぜならそれは「嘘をつくということがその相手の人格を攻撃することだからだ」と。Aさんを殺そうとしている−つまり人格を破壊しようとしている−Bさんにさえ人格はあるんだ。そしてそれは最大限に尊重されなければならないんだ、って。厳格なカントらしい考え方ですね。

 

 カントの記事ではないのでここで抑えておきますが、カントだってAさんが殺されるのを正直になることで黙って見てろなんて言いませんよ。

 

 「借りたモノを返す」という半ば当然なことも状況を考えた時、不適切になることもあるわけです。 

 

 プラトンの主張から私たちが抽出すべきことは、「借りたモノは返さなくていい」ということではなく笑、「物事が起きる前の状況と、その後の状況の変化をしっかり受け止めて、その現実の表象に応答すべきだ」、ということでしょう。noteにも書きましたが、学んで徹底的に考えることが大切です。この記事から学ぶことがみなさんにあると嬉しいです。そしてこれに対しても同じように徹底的に考えて疑っていただければ、筆者としてこれ以上の喜びはありませんし、是非とも反論を飛ばしてきていただければと思っております。今日も読んでくださりありがとうございます。

キケロさん。ピエロじゃないよ。

 どうも、こんばんは。今日はnoteに投稿する記事を書き上げようと思っていたんですが、全く書いている余裕がありませんでした。つらたん。

 

 今回は、マルクス・トゥッリウス・キケロについて書こうと思います。彼はローマの弁論家・思想家・政治家ですね。彼は『国家について』『法律について』『義務について』など、後世に大きな影響を残した偉人として知られています。私も実は大変敬服している先人です。たとえば、キケロは古典古代文化の香り・格調高さを湛える作品を多く残し、修辞学の伝統そのものと言っても過言ではありません。たとえば、古典の復興運動であったルネサンスはフランチェスコ・ペトラルカの「キケロの再発見」によって始まったことからも、彼の卓越性が窺い知れるでしょう。

 

 彼は「共和政の理念」の保持こそが重要であるとし、その「共和政の理念」を失いつつあるローマを救おうとしていたのです。彼が死して、間も無くローマはカエサルによる帝政に入ることになるのです。そのまさしくローマの共和政が死そうとしていた頃に、彼は、「自然法」概念によって「共和政の理念」を補強しようと試みます。彼は「宇宙全体を支配するのが自然法であるが、人間は理性によってこれを認識することができる。理性を媒介に人は神と結び付くのであり、個々の国家ではなく、全人類を包括する理性の共同体こそが法や正義の基盤となる」(宇野、2013)と考えていたのです。

 

 例えば、「理性」、宗教においては「神性」と現実の法や正義は切り離して考えられていました。それは実は今日も同じです。「法理学」という学問があり、近年は「法哲学」と表現されることも増えてきましたが、これは「法学」と「哲学」を合体させた学問領域です。その「法」は現実社会における規範であり、「哲学」が論じる「正義」や「善」といった「理性」の総括的概念である「道徳」とは馴染まないという。なぜならば、「法」は現実の社会で使われているいわば「常識」であるのに対し、「哲学」は多分に形而上学(分かりづらかったら、言葉遊びとでも…)的であって「非常識」なことを語る学問だからです。ゆえに、「法哲学は可能か?」という議論が、「法哲学」の入門で提起されます。これと同じように、キケロが生きた当時も「理性」と「法」は切り離されていた。それは恐らく現代と同じく「現実と哲学は違う」と考えられていたからでしょう。

 

 ところが、キケロはそんな時代に、人間は「正義」を実現させる力を持っていて、それを形にするのが政治家であると論じたためです。彼は、道徳無くして共和政はあり得ず、共和政無くして道徳はあり得ないと論じたのです。それは明らかに、人々の「善」意識などの共有による合意に基づいて形成されるのが「法」であり、その「法」に基づいて人々が直接的に政治に関与していくことが必要だと説いたことと連関しています。

 

 ここで注目すべきは、キケロが「道徳」を重視しながらあくまで「法」を大切にしたことです。ローマは、その歴史の中で「ローマ法」を形成していきます。これが、現在の英米法あるいは大陸法にも多大な影響を与えていることは言うまでもなく、その形成の段階でローマ人が律法家としての資質を磨き、それが文化の特徴になっていったということは極めて面白い事実でしょう。それは、ローマ式の建築がすべて様式に沿っており、例えば、石畳の石の寸法が揃えられていたり、道標を極めて正確に設置していったことからも伺い知れます。つまり、ローマ人の極めて高い規範意識と規格性を看取できるということです。

 

 ギリシアはその昔から、ホメロスの著作からも感じられる通り、ある程度の権謀術数の渦巻く地域であり、嘘や讒言が蔓延していた地域です。そしてその不正のせいで、古代アテネは一気に勢力を減じたわけですが、ローマはその法的な定量化によりそれを免れてきました。それは今日の国民性にも通じるものがあると感じられます。ギリシャの帳簿のごまかしからはその道化を感じられますが、ローマ人であるキケロさんは全く道化ではありませんでした。ピエロさんじゃなかったんです。お粗末さまです、すみません^^;

 

 彼は、あくまで言論で闘ったイメージですが、軍務もきっちりこなすような超人でした。卓越した彼が護ろうとした共和政がその暗殺後にカエサルによって破壊されます。残念でした。しかし、その「共和政の理念」は今日アメリカに根を下ろしており、カエサルにより完全に破却されることがなかったことは喜ぶべきことかもしれません。

 

 なお、大統領選…

 

 

 

 

EUに関して。News Picksへの投稿云々

 EUは、超国家的性質と国家連帯(国家間の広域同盟)に基づく「政府間主義」のふたつの性質を持っていて、それらが絶えずぶつかっている。

 

 

 超国家的性質には各国の「国家主権」を脅かしているという批判があり、政府間主義にはものごとが決まらないという批判が出続けている。これはその通りだ。

 

 欧州連合は、クーデンホーフ・カレルギーの『パン・ヨーロッパ』や、昔のフランス大統領アリスティド・ブリアンの「ヨーロッパ連邦構想」にその端緒があり、ヤルタ体制などの欧州分断の歴史を経て、西ヨーロッパが統合され、ドイツ問題を克服し、徐々に進行してきた。

 

 

 そして領域移動の自由化と、共同通貨EUROの導入を行い、緩やかに経済の統合を進めてきたが、ここで問題がおこる。それは1)法的な問題と2)シェンゲン・ゾーンの問題であった。

 

 

 まず1に関して、EUは加盟する際に、「コペンハーゲン基準」はa)政治的基準(民主主義・法の支配・人権保証・マイノリティ保護)、b)経済的基準(機能する市場経済EU内市場の競争や変化に対応できる体制か)、c)法的基準(義務を遂行する能力、政治・経済・通貨同盟の目的の共有、EU法の採択と実施)、d)地理的基準(欧州の国であること)を満たす必要がある。さらに、EU法(アキ・コミュノテール)と各国の国内法との整合性を取っていく作業、を経てその理念の共有と行動を見て、EU内で各国に与えられる義務を履行できる国だけが加入できるようにしている。ところが、近年、ギリシャ債務不履行問題によって一気に状況が動いている。EUは<不正を行っていた>ギリシャ経済を救う為に連合の資金を拠出した。これは欧州の人々からしたら倫理的・道徳的問題であった。それはまさしくウォール・ストリートの失敗に対して、アメリカ政府が公金で救済した時と同じものであった。しかしそれよりも深刻なのは、EU内問題は、「国民国家」というひとつの共同体の中で起きているのではなく、ゆるやかな国家連帯の中で起きていることであって、「国民国家」内でおきるよりも「赤の他人」感覚が強いことである。

 

 

 次に、2について、国境の移動の自由化はシェンゲン協定批准国が多い、欧州圏で可能となっている。これはEU加盟国でなくとも、批准している国はあるが、EU圏とほとんど被っている。そしてこのエリアをシェンゲン・ゾーンという。これは、経済連携を高める為に極めて効果的な条約であったにも関わらず、近年ーここ23年ーで大きな問題がでてきた。それは<ISIS>だ。彼らは中東地方で多くの難民を生み出している。そしてその難民は、シェンゲン・ゾーンに含まれていないトルコにはいる。それはドイツを目指しているからだ。さて、ドイツを目指しているからトルコに入る理由は、トルコからギリシャは小さな島でつながっているために、警備が手薄でシェンゲン・ゾーンであるギリシャまで容易にはいれるからだ。すると社会保障政策の手厚いドイツに難民はたどり着ける。ゆえに、メルケル首相が現在難民・移民の急増で窮地にたたされている。

 

 

 そして、特筆すべきはロシアだ。彼らはシリア空爆を続けている。これはアサドの支配圏だが、これによる難民の発生も看過できない。もし、ロシアの空爆がシェンゲン・ゾーン(EU圏)の弱みをついたEUへの攻撃だとしたら、なすすべがない。

 

 

 そして、シェンゲン協定のために、難民の侵入を指をくわえて見ているだけだと、人々は不満を持つ。「なぜ奴らの食い扶持をかせがにゃならんのだ」と。そこで、フランス国民戦線、「ドイツのための選択肢」など排外政党が力を持ち始めている。彼らは言う「自らの国民の保護を優先すべきだ」と。難民にくれてやる金などないんだ、と。しかし、EU法で人権保護が定められていて、履行しないわけにはいかない。ところが経済状況がそれを許さない。ドイツは依然として経済成長を続けているが、他の国々はその限りではない。(なんで NPには統計データの画像が貼れんのだ!!)ここにきて、債務不履行をしたくなるが、EU内ではできない。じゃあ、どうするか? 抜けますか、と。実はイギリスはEURO圏でもシェンゲン・ゾーンでもない。そんなイギリスが脱退ということを考え出す理由のひとつは、「沈みそうな船にいつまでも乗っていられるか」ってことだろう。イギリス人は強かな外交能力を持っている。彼らならそう考えていても不思議ではない。

 

 

 いまのEUの問題は、上記の限りで考えると、難民問題・経済問題・領域問題・主権問題・法的問題が挙げられる。これらが複合的に組み合わさり、EU脱退。そしてその先にEUの空中分解が見えている。メルケルは、難民問題について、ギリシャ問題についてがんばった。踏みとどまった。しかし、このEUの抱える問題は、他の諸国でも起き続けている。どうなるかわからない。これからも注視し続ける。

動き出した。被選挙権の引き下げ。

Open Politicsという被選挙権の18歳への引き下げへの動きが始まった。

 

期待に胸を躍らせている。現実レベルで実現可能か? 可能だろう。わかい人は少ない。だからこそ、重要なんじゃないか。若すぎてできないだろうと言われるかもしれない。そうだろうか。

 

まちづくり」で人々と関わっていると「若い力」「若い力」と聞く。彼らは若者が大きな力を秘めていることを知っている。それは若さゆえの行動力であったりなんなり。若さそのものが力だって俺は感じている。俺自身は、正直いって、内面がシナシナで若くないかもしれない。でも、周りの同年代は輝いているよ。だから、俺も頑張ってみたい。そう思ってるんだ。

 

ぼんやりとしか語れないけど。ワクワクするよね。被選挙権年齢の引き下げって。投票権年齢が、18歳になったいまだからこそはじめようよ。みんなで。みんなで。

 

ここがスタート。みんなで日本をもっともっと好きになって、もっともっとカッコよくなろう。さぁ、今はじめよう。

 

そのスタートはここだ→

open-politics.org